十代のころ
国語が大好き
五十市中学、都城西高校と進みました。国語が大好きでした。高校に上がってから、思いっきり、数学でつまずきました。偏差値が50を超えることが無く、数学だけは、別なクラスで受けていました。今思うと当たり前の結果だったのですが、当時はかなりへこみ「文系向きかな?理系はむりだわ。」と思っていました。
授業中は寝てばかり
実際高2の正月までは、進路はそのつもりでした。高校時代は毎朝、授業の前の補習に朝早く起きていました。授業が終わった後も補習です。夏休みも殆んどが補習でした。おかげで、授業中は寝てばかりで、「なんか違うよね」と感じていました。勉強のことばかり書きますが、40年代後半の田舎の高校はこんな雰囲気でした。この反動が、大学時代にでました。
大学生になったら
九州大学 工学部、麻雀、映画
最初は、九州大学の工学部に入りました。陸上部に入り、毎晩本当に大酒を食らってました。住んだのは、大学の寮で「田島寮」という新築の鉄筋4階建てだったのですが、風習はバンカラな昔のままです。田舎から急に出てきた、10代の「ともきよ」はどっぷりはまりました。見知らぬ土地から来た人と話すのも友人になっていくのも楽しく、みんなが興味深く、刺激的でした。福岡の街も珍しく、大きく、にぎやかで、当時はまだ電車が街中を走っていました。異常なくらい大好きだった深夜放送の「ナッチャコパック」もきちんと受信できました。授業も出ず、部活とマージャンに明け暮れました。当時は300円で3本立の映画館がありました。終わりの時間が決まっているので、最初の映画が、途中から始まるのにはビックリしましたが、都城で見た映画の100倍ぐらいを一年で観ました。本もたくさん読みました。時間はいくらでもありそうな気がしました。
中退しよう-「馬鹿か」
ある夜、寮の先輩の車でラーメンを屋台に食べに行きました。28年前、オフホワイトのブルーバードでした。紅生姜ののった、豚骨ラーメンを食べながら先輩が「俺、9月で大学辞めるわ」と言いました。当時の九州大学は教養部のときに2年以上の留年は、放校処分だったのです。その時「ともきよ」は、きれいに1単位もとっていませんでした。授業にも全然出ていません、クラスの友人は一人もいません。おまけに工学部がそもそも理系自体が向いてませんでした。目の前にいる先輩は、確実に未来の自分でした。中退しようとはっきり思いました。進路指導と偏差値が選んだ大学でした、学部でした。両親に電話をかけると「馬鹿か」と返ってきました。自分の意思で進路をきめた初めての瞬間でした。
鹿児島大学歯学部へ
「受かりっこない」
浪人してから、鹿児島大学の歯学部に入学しました。1期生でした。その年は、共通1次(今のセンター試験)導入直前でした。最後の2期校制度の新規学部として、全国から受験者が集まり、「受かりっこない」と思いながら受験しました。理由は予備校時代の楽しい生活にあります。自分の意思もあっけないものです。今考えると親には本当に申し訳ないのですが、私一人だけ荷物を福岡の予備校の寮に置いたままでした。
大学生活 8年
ところが合格していました。寮のおばさんは帰ってくるもんだとばかり考えていて、日当たりのいい部屋に僕の荷物をうつしてくれてました。本当に何で合格したのか?鹿児島で大学生活を8年過ごしました。何故8年も?親には本当に迷惑をかけました。都城に帰ってきて5年を経たところで、現在地に1991年5月7日に33歳で開業しました。今年で14年になります。