私の過去を書きました

小さいころはこんな風でした

弱虫、泣き虫

001_tこんにちは、土持歯科クリニック院長の土持朝清です。昭和33年7月22日生まれで、もうすぐ47歳になります。名前は「ともきよ」とよびます。名前の由来を父に聞いたことがあります。「清々しい朝に生まれたから」とのことでした。大人になってから「字画」を調べたのですが、まあまあでした。土持という名前からこちらの生まれの感じもありますが、私自身は生まれは佐賀県です。

生まれたころから、身体が弱く、父親の自転車に乗せられて、何度も病院に通ったそうです。初孫でもあり、病弱ということも重なって、幼稚園のころには、甘えん坊の、完璧なおばあさん子でした。本当に弱虫、泣き虫でした。両親(特に父親)は厳しく、喧嘩して泣いて帰ってきたり、ビー玉を全部巻き上げられて帰ってきたりすると、夕御飯の前に、特訓です。怒られてまた泣きながらビー玉を転がしていました。そのおかげで、年長さんの頃にはかなり腕を上げていました。

転機、都城へ

そんな私に転機が訪れます。都城に引越しです。小学校にあがる直前6歳の春です。突然引っ越してきた村の名前は、「狐塚」今の平塚町です。なによりびっくりしたのは、困ったのは、言葉でした。牛を「べぶ」大根を「でこん」クワガタムシを「はすんがに」40年以上前のことです。今からは想像もできないほどバリバリ方言でした。本当に言葉が通じませんでした。あまりのことに当時の記憶が飛んでいます。

小学校は五十市小学校です。竹やぶの茂る道を抜けて、精米所の横を通り、製材所の前を抜けて、大きな『でんぷん工場』の周りをカーブして、まだなかった工業高校の前を曲がると、学校でした。2キロ強の道のりは、病弱だった『ともきよ』をすっかり、頑丈にしてくれました。耕運機を追いかけ、から芋を積んだ馬車!にぶら下がりながら、通学しました。小学校1年生の時の担任の「谷口章一先生」が、体育と図工の好きな先生で、よく運動させてくれたのも大きかったです。先生の造った模型飛行機を追っかけて、みんなで走り回っていた記憶があります。おかげで小中高大と風邪を引いたことがありません。学級閉鎖にも一度もひっかからず、毎回給食のパンを休んだ友達に配達する係りでした。

ペダルをこいで

車の少ない当時は自転車で春は、もちおの桜祭り。夏は、ラジオ体操の前に蚊帳を抜け出して、遠くの山にクワガタ採り。秋は、「キーハンター」が来るというガセネタに踊らされて、関ノ尾の滝まで行った事もあります。友人と大勢で、あるいは一人でどこまでもペダルをこぎました。自転車でいける範囲が世界でした。のんびりした田舎の子供でした。小学6年まで毎日寝る時間は8時と決まっていました。今の頑丈さは、この時に、できたんだと思います。

 

どんな家だったの

ホンダN-360

小学校4年のころに、クリーム色のホンダN―360が家に来ました。その前に母が免許を取り、家にカタログも置いてありました。毎日、カタログを穴が開くほど眺めていました。ある朝「今日は早く帰っておいで」と、母親に言われました。耕運機を追い越すスピードで帰ると、自動車が来ていました。衝撃が大きかったのでしょう、当時の記憶が飛んでます。早速1週間後には、家族を乗せて、37年前の加久藤峠越えで、長崎に向かっていました。おまけに夜の出発でした。かなりの無謀さです。未舗装のガードレール無しの、ぎりぎりすれ違えるほどの一方は谷底、対向車はダンプ、えんえん続く峠道を越えて行ったのです。

カラーテレビ

カラーテレビが来たのは、小学校5年の大晦日でした。これも色んなメーカーのカタログが家に置いてあり、穴が開くほど読んでました。年末の大掃除をしている我が家に、豪華なナショナルではなく、18型のコロンビア製( 国じゃないよメ―カー名です )のカラーテレビが来ました。初めてカラーでレコード大賞や、紅白を見ました。大晦日の夜のテレビは一大イベントでした。

大阪万博

002_t小学校6年ときに万国博覧会がありました。パンフレットが1年以上?前の時期から、おいてありました。今考えると60ページほどの、B4程度の雑誌だったと思います。「ばんぱく」の意義も知らず、パンフレットを毎日真剣に読んでいました。そして、ある熱い日の朝、月の石が展示してある『アメリカ館』の前にいました。覚えているのは、『オーストラリア館』で食べた、「カンガルー肉のカレー」だけです。どのくらいはしゃいだのか?喜んだのか?疲れたのか?感動したのか?覚えていません。たぶん興奮しすぎて、舞い上がっていたんだと思います。記念メダルと、ぼろぼろになったパンフが今も実家の引き出しの中にあります。当時の我が家の家計で、親子4人、大阪に万博を見に行くのは一仕事だったと思います。考えたら、日々の暮らしで贅沢をすることは、ありませんでした。自転車はずっとオンボロで、グローブも低学年用でした。ファンタ、カルピスはご馳走でした。ジュースは粉ジュースが当たり前でした。

ここでクイズ

前振りしながら、突然大きな事で驚かせようとするのが、私の両親の癖というか、愛情表現だったのかもしれません。いま自分が二人の子供(中1,小3)の親になって,色んな事が解り始めました。今この文章を書いていますが、記憶の後付けで、本当に子供のときの気持ちは思い出しません。そして、両親のその癖が愛情が高校3年生の受験が近づいた秋の晴れた日に、とんでもない「贈り物」を我が家にもたらすことになるのです。

ここでクイズです。その「贈り物」とは何でしょう?(解答はページの最後に)